昭和45年10月11日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心は容易ものじゃが、みな氏子から難しゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、我ながら喜んで、和賀心を祀れ。日は年月の始じゃによって、その日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうが。見易う信心するがよいぞ。」
信心のある者の世界。信心のない人の世界。これはもう自ずとハッキリ致しております。信心のある人の世界、信心のない人の世界、そこの所が三年五年ではまだ迷いやすいと仰せられる様に、信心のない時代、又は信心を頂く様になってから、此の方と云う所がですね、まだ混然としてる訳ですね。はっきりしてないんです。そこで迷いも起こって来る。又信心とは難しいなあという事にもなって来る訳です。
そこで段々、お互いが信心をさせて頂いて、ハッキリ信心の有る者の世界に、住まわせて頂くという事がね、信心はいよいよ容易だけではなく、信心はいよいよ有り難い楽しい、言葉には云うなら表現出来ない程しの世界。まあ云わば次元の違った世界とでも言う事になりましょうかね、信心の有る者の世界、又は信心のない者の世界は、自ずとはっきりその区別がつくのです。
ところが三年、五年ではまだ信心が迷いやすいと仰せられる様に、私共の場合そこん所がね、信心の有る者も無い者も、云わばある場合には、信心のある者の世界の中にあり、ある場合はもう信心を取り落としてしもうて、信心の無い時代の世界に住んでしまっておる。そこで、そこに混然としておる、云うなら混然とでなく混沌としておるものですから、そこの所が非常に難しいと言う事になる。
そこで果たして私共がです、そんなら合楽で御神縁を頂かれた方達の場合はもう、二十何年間、まあ云うなら三年五年と朝参りでもなさる方は、殆どの方が十年、又は二十年と続いておられる方達ばかりなんですよね。そんなら、果たしてその十年も二十年も信心を続けておる、云わば私達が果たしてまーだここにある三年五年ではまだ、迷いやすいと言った様な所にあるのではなかろうか。次元が違う、いわゆる世界が違うと云う様な事を申しましたのは、信心させて頂いて本当な事が分かる。ですからものの見方、感じ方と云うものが全然変わって来る訳です。
そこにはね云わば有り難いものばっかり、楽しい事ばっかりそういう信心がです、成る程十年と続いたら、我ながら、我心を祀れれるおかげが受けられると思うね。所が私共の場合はいわゆる信心は容易ものじゃが、皆氏子から難しゅうするとこう仰せられる。私共が信心のない者の姿にかえってしまう、信心の無い時代と同じ考え方をする。いわゆる容易いものじゃが氏子から難しゅうすると仰るのはそういう事なのである。
そこで私共が、信心にならしてもらう。信ずる心がいよいよ強うなり、真心を追求して、いよいよ神心を求めての云わば信心になって行く所に精進させてもらう。それは確かにそうですね、信心の無い人達がひとたび、ま何かの縁で、御縁を頂かれますと、初めて聞くと言う様なお話を聞く訳ですね。第一天地の御恩徳、天地の道理、ことわけ、もうそれこそもうびっくりするんですよ、みんな、ある意味で。
そして今まで、信心の無かった時の云わば、どうして早くこういう有り難い御信心を頂かなかっただろうかという気になるんです。これはもう殆どの人がそうです。信心を始める。喜びの芽が出る。けれども無惨に、その喜びの芽が又踏みにじられたりつんくじられたりする様な事になって惜しい事だと、神様が仰るように、必ずそういう信心の喜びの芽というものが、出るんです。
ところがそんなら、そういう例えば天地のこと分けなどを聞くと言う事などは、もうそれこそ初めて聞く事なのですからね、びっくりする程しの矢張り心に一つ衝動というか、衝撃というものが生まれて参りましてね、そこから信心の有り難い事が分かって来る。ところがですね、いわゆる三年五年ではまだ迷いやすい。時々自分の心の中に、信心しよる事が馬鹿らしゅうなる。又信心しよったっちゃ、こげな事が起きるならという事もやっぱりある。そこのねきから又迷いが起こって来てね。
もう皆さんそれこそここに、合楽に参りまして、合楽の方達は、殆どがここへ私共が参りましてからの信心の方達ばっかりですから、もうお参りし出したら、一時ばかりはもうそれこそ、ぼうけた事なって参って来るでしょうが。そして十年たったっちゃ開けとらんごたる心もまあ、開けておる訳じゃないでしょうけれども、そういうものを実際に、感じてですね、もう私がお取次をさせて頂いて、びっくりするごたるお届けをなさいます。これは合楽の方達ばっかりじゃありませんよ、皆んながそうなんです初めは。
ちょっと信心に本気で信心を、こげな有り難い信心をどうして早う頂かじゃたじゃろうかと言った様な思いがする、所まで信心を頂くと必ず誰でもそうなります。そこでなら半年、一年続けて行く内に、それが緩んで来るというとはどういう事か、と。考えてみると、毎日何百円というお初穂しよる、眠い思いもせんならん、時間もかかる、そげな所ばいわゆる信心の無い人の姿で信心を見たりするから、何とはなしに、馬鹿らしゅうなって来る。馬鹿らしいだけじゃない、こんな事じゃいかん。
これは本当に信心の初めの様に有り難うならにゃいかんと、そういう心で行ったり来たりする時代がこれは誰しもの上にあるんです。ですからね、十年、二十年と信心が続いたと言う事は、大変な事なんです。実際は。ようもここまで続けさせて頂いたもんだと、十年二十年そんなに甘い事ばっかりはなかった。信心しよってどうしてと言った様な事もあったけれども、ようそこを辛抱し抜かせて頂いたもんだと言う事になって来る訳なんです。なかなか、喜びで我が心を祭れると言うところ迄は中々行きません。
そういう三年、五年の信心では、まだ迷いやすいというその迷いやすい所を、通り抜けさせて頂くと言う事。ハッキリと信心者の世界。そこに住み着かせて頂いたら、そこから信心はみ易いものになって来る。その日、その日の立ち行きが有り難い。日は年月の始じゃによって、その日その日のおかげを受けて行けば立ちゆこうが、見やすう信心をするがよいぞという信心が見やすい事になって来る。自動車の運転を体得する、覚える。その覚えてしまう迄が信心なのだ。
信心させて頂く者の在り方と言う事がです、体得出来る迄が信心辛抱。云わば自動車の運転免許を取った人に運転は難しかでしょうね、と誰も難しいという者はおらん。先生誰でん出来ますよと。進める事と止める事と覚えりゃいいのに、ハンドルばこうこうしてやってして見ると、もうそれこそ眠っとる訳いかんからね、けども半分くらい眠とったっちゃ出来る。自動車の運転ちゃその様にみ易い信心とはその様にみ易い。
けれどもその運転免許と取る所迄が辛抱なんだ。神様がもう云わば真の信者と認めて下さる所迄が信心辛抱なんです。だから、そこの所を体得して、参りますと信心は容易ものになって来る。いわゆる有り難いもったいないと言う事になって来る。我ながら我が心を祭らしてもらう。信心とは困った時に頼む事だけが信心と言った様な観念的な考え方を一掃してしまう。
信心とはもう限りなく、その日その日が改まりであり、その日その日が研くという事に焦点を置く事なのだと言う事になりますから、どんな問題が起きて参りましても、その事によって研かれておる、その事によって改まって行きよる。私は今朝方のお夢を頂いた。それがその私が酒屋に奉公しておりました時分の様です。それでいてここのお広前の様である。そこのご主人と二人で電気を消して真っ暗な所で休んでおる。
そしたら泥棒が入っておる、二人組で。それが私が先に気付いたからご主人を起こして、今家には泥棒が入っとりますよと。だから私が二階に上がって二階に電話があるらしい。二階に上がって電話をかけて来ますからというて二階に上がっていった。 そしたら下は真っ暗ですけれども、二階はその電話機なんか電気を付けた様である、昼の様に明るい。そこで私が電話を掛けておる所が113と言う所に電話をかけておる。
そしたらその二人の泥棒が階段の所へ上がって来た。所が上があんまり明るいもんだから、自分の顔見られちゃまずいと思ったのか下へ降りたから、上がってこんと言う所、私は113に電話を掛けておると言う様な所であった。そしてその次にこれは丁度、昨夜お祭りが済んだあとで、今日小倉に信徒会長、高橋さんと若先生がお供してお供えを持って今度19日、20日か記念祭ですからそれのお供えを持って今朝。
朝の御祈念が済んだらあちらに出発してもらうごとなっとります。その準備を夕べさせて頂きながら、私がちょっと半紙があったから半紙に筆ならしにちょっと書かせて頂いた。それは「まごころ」と私がひらがなで書かせて頂いた。それと同じ様にです、私が「うけごころ」と書いていた。まあそれはそのお夢の続きの様だったんですけれども、そんなお夢を、今朝から頂いた。昨日秋永先生がお届けをしておられる様に。
やっぱり先生の所にも、自動車泥棒が入っておる。しかも新しい新車、その中にはいっぱい商品が入っておった。と呉服屋さんですから、それこそ高価なものばかりでしょう。他人からお客さんから預かっておられたものやらも、入っておった。その日に限って中身は出さずに車庫に納めたのが、実に神ながらだと私は思う。云うならば、十万円のお取り払いよりも、五十万円のお取り払いの方がよかった訳ですね。
昨日お話しした事ですけども、御本部で頂いた大牟田黄金町というのはね、あれはねどう言う事かと云うと、大牟田というのは、大きい田と書いてある、牟というのはカタカナでムという字の下に牛と書いてあるでしょうが。と云うのはね、廻りのお取り払いを頂くという、そこに大きな廻りがあれば、大きい廻りがある程におかげは大きいと言われております。私共なんかは、そういう意味で皆さんよりも大変大きな廻りを持っておったが、その廻りのお取り払いを頂いた時に、そこには、もう既に大きなおかげに受けものが出来ておったと言う事である。
大牟田というのはそういう意味なんです、ね。一尺真四角の所に黄金が積まれるよりも、やっぱり一間真四角の所に、黄金が積まれた方が、大きいでしょうが、と言う様なもんなんです。そしたら神様が丁度時期を見計らってです。一番都合のよい時期を見計らってお取り払いを下さった。自動車だけじゃない、一緒に商品までもが、ごっそりいわゆる盗難に遭われたと。そこでその盗難に会うたというその事がです、神様へ対するお礼と言う事になっておる。次に御願いと言う事になっておる。
その御礼と言う事がです。私共が二十年間、云わば一生懸命稽古させて頂いた。どの様な事どの様な場合であっても、お礼を申し上げる事以外にはない。というのはそれなんです。それがいわゆる基調になるのだと信心の基調になる。いわゆる御礼と言う事、全ての事、どの様な事柄の中にでも、先ず御礼が言えれる所の信心、何故そう言う事が出来るかと云うと、次元が変わって来るから、信心の世界が変わって来るから、信心のない時の、全然世界が違うから、泥棒に会うた事に対する御礼が出来るのである。
そういう信心を一つの基調として、いわゆる、御願いと言う事になって来る、今日の御理解はここだと思うね、三年五年の信心では、まだ迷いやすい。どの様な事柄に出会っても、その事に対する所のお礼が申し上げれる程しの心。そういう心が我ながら、喜んで我心を祭れる、本当にこれが信心の無い時代なら、どうだろうか、もうそれこそ、青うなってしまう事であろう。
信心させて頂く様になって、だんだん住む世界が違って来た。次元が違って来た。ものの見方考え方が違って来た。いわゆる本当の事が見え、本当な事が分からせて頂く様にならせて頂いたら、その事に対する御礼すらが言えれる様になったと言う事はです。我ながら喜んで我心を祭れれる心だと、私は思う。その日その日の、おかげを受けて行くと言う事は、その日その日が、有難い事ばかりが起こって来ると言うのではなく、その日その日がどの様な事の場合であっても、神様有り難う御座いますと受けて行きゃあ、こんなによういな事はない。
それこそその日その日が立ち行こうが。見易う信心をするがよいぞと、信心が見易うなって来る訳です。そこからです。いわゆる御願いという事になって来る。成る程廻りの深い私としての自覚、けれどもその様に何時も損をしておったり、泥棒に取られておったばっかりしておったんでは、成る程廻りの深い、私である言う事も分かりますけれども、それでは世のお役に立てません。
そこで世のお役に立たせて頂きたいと言う一念が、そこん所を基調として、御願いと言う事になって来る。泥棒が私のお夢の中に現れた、入っておるそこに何かがそれこそ、起こって来る時にです。私は下から一段高い、所へ登っておる。何かがあるたんびに一段ずつ高い、二階から三階、三階から四階という風に登って行くと言う事が信心なんだ。昨日の朝の御理解を思うて貰うといいですね。
しかも113に架けておると言う事電話を、これはまあもう一つひとつと云う意味じゃないです、一つひとつお取次を頂くという意味だと思います。一つひとつの事を三と言う事は、私はお参りと言う事にもなりましょう。一つひとつです、お参りしてお取次を頂いて、いわゆる御願いをさせてもらう。その都度に、私は一段高い所に上がっておる、又、上がって行けれる。
そこにはね、そのもう廻りの方があんまり明るうなっとるから、上がろうと思いよるが、梯子の段の所まで来とる、二人共、けれども上があんまり明るいもんだから、顔を見られちゃいけんという格好でね、その上さへ上がって来きらんと言う所であった。もう上の明るい一段上の私共が信心を進め上がった所には、もう廻りも寄り付けないという感じなんです。
私が夢の中に、受け心と書いておる事はね、私共がその事は難儀である。下で起こっておる事は難儀な事であるけれども、一段上に上がらせて頂いて、明るい所に一一三と言う所になって来る所にはです、ね。いわゆる御礼の心である。お取次を頂いて、本当におかげを頂きましたと、御礼を申し上げて行く心なんです。そういう心が私は受け心、おかげの受け心ではなかろうかという風に、私は思いました。
信心のなかった時代、信心を頂く様になってからの世界、そこに、三年五年ではまだ、迷いやすいと仰せられるようにです、まあだ信心の世界と信心のなかった世界のその中を行ったり来たりしておりますから、いわば混沌としておる。その事実をいうたら私は十年たっても、二十年たってもです、信心のある者も無い者も、ある者も舞い者も変わらん様な考え方をしておる事を、まあだ混沌としておる我心を祭れる段じゃないと言う事になって来る訳です。
それは私共が本気で、例えば自動車運転の免許を取る所迄勉強しようと言う事になって、免許を取ったらもう自動車の運転というものは、難しいものはない様にです、私共が本気で信心の稽古をさせてもろうて、いわゆる本当な事が分かって、本当なものの見方、考え方が出来るようになるという事の為には矢張りまだ三年五年では迷いやすい、矢張り十年なっとんそこん所が本気で取り組まれなければです出来る事ではない。
そして信心は容易物じゃと、容易だけじゃない、実に有り難い、もったいない、楽しいという事になって来る。そこまで行ってない人が、随分、実際には、多いのじゃないでしょうかね、三年、五年ではまだ迷いやすいと仰るような、その迷い易い様な状態にお互いがあるのではないでだろうか。まあだ本当にいわゆる運転免許を取っていないからなんです。だから、本気で私は信心の稽古を迷いが起こらん、どの様な場合でも怒らんで済む、全ての事がです、御礼に尽きると言う様な頂き方が出来れる信心、其処から私は信心が進められて行くならばです。
その日その日の、おかげを受けてゆけば、立ち行こうが、見やすう、信心をするがよいと。見やすう信心する、という事は、全てが、有り難いと受けられる事だと思うです。全てが、有り難う御座いますと、御礼が申し上げれる心だと思うです。そういう心の、基調というものがです、そういう基礎が、出来て参りました時にです、信心はもう容易ものになって行く。
そこからよりおかげを受けたいという願いはめいめいが持っておる事で御座いますし、よりお役に立ちたいという念願が強なって来れば、強なってくる程、願わなければおれない、そこに御願いと言う事になって来るのです。御礼それが信心の基調だと、そこまではです、お互いの信心を一つ、これは三年、五年ではまだ迷いやすいでしょうけれども、十年と続いたら我と我心が祭れれる位な心の状態を願っての信心をさせて頂くならば信心は見やすいものになって来る。
その容易い信心の上にです、一段と又御願いの信心がなされて行く。そこから信心はいよいよ今度は輝かしいものと申しましょうかね、そういう信心を一つ基調として、御願いの信心に立たしてもらう時にです、いよいよ信心が輝かしいものになって来る。その頃には、いわば大牟田である、いわゆる牛のお知らせは廻りと仰るですから、その家の廻りが無くなる。そこに大きな田、大きなおかげの受けものが出来る、いわゆる大牟田黄金町と言った様なおかげにもなってくる訳ですよね。
どうぞ。